(株)武蔵野酒造

地域 上越
代表銘柄 スキー正宗
住所
新潟県上越市西城町4-7-46  Gooleマップを見る
URL
http://musashino-shuzo.com

武蔵野酒造は、新潟県上越市の酒蔵です。
スキー発祥の地ともされており、その由来から「スキー正宗」が代表銘柄となっています。

上越市の環境と歴史

今なお人気の武将 上杉謙信像

上越市は、新潟県の南西部に位置する新潟県で3番目に人口が多い地域です。
1971年に古くから関係のあった高田市と直江津市が合併されて発展をしてきました。
戦国時代には上杉謙信が春日山城を構え、また江戸時代には高田藩の高田城があったため、古くから城下町として栄えてきました。

上杉謙信は春日山城を構えて現在の新潟県、富山県、石川県までにもその勢力を伸ばしていました。
また戦国武将としても非常にユニークで、人気のある武将の一人ではないでしょうか。
多くの武将は、鎧や甲冑姿が描かれています。
しかし謙信は、僧侶のような被り物をしており後世まで銅像に描かれております。
彼は曹洞宗や真言宗、そして禅を学び法名まで受けています。
また和歌を詠んだり、琵琶を奏でるなど、公家との交流もあった文化人であったとも考えられています。
生涯結婚はせず、ミステリーに包まれていることから果ては女性説まで流れるほど。
戦国武士として名高く、後世は「軍神」や「越後の龍」などと称されています。

謙信は内乱が続いていた越後を統一し、産業を振興して自国を繁栄させました。
その産業のひとつとして、直江津の港を抑えて貿易に力を入れたことが挙げられます。
衣料の原料となる青苧を栽培し、この港を軸に全国に広めて財源としました。
また後に金山として有名になる佐渡との貿易で、商人や領主へから多額の税金を得ていたとされています。
他にも沿岸部で塩の製造を行うなどして、財政力は武田信玄や北条氏康、長曾我部元親、伊達政宗を上回る規模だったとされています。

江戸時代に入ると高田城が置かれ、初代藩主として徳川家康の六男である松平忠輝が入城しました。
その後は御三家に次ぐ家柄の松平光長が入るなどして、城下町として賑わいました。
開墾により近隣に大きな穀倉地帯を作り、現在までの農業文化に繋がっております。

この城下町は、江戸時代から計画的に造られました。
街道が整備され、交通・運輸、商業・流通、職人の町などが計画的に配置されました。

現在にも残る「雁木(がんぎ)」の風景もそれを端とする文化のひとつです。
雁木とは家の前に出した長いひさしですが、これにより雪の中でも人々の往来を盛んにさせたのです。
この雁木の町並みは現在では約16キロメートル続き、全国一の長さを誇っています。
もともと地域の共同体意識から生まれたものといわれ、現在でも交流館やミュージアムとして活用されています。

高田公園の夜桜

現在、春日山城の跡地である高田公園は桜の名所として有名になっています。
お堀の水にライトアップされた花が映る様子は、 上野恩賜公園と弘前公園と並び日本三大夜桜に数えられるほど立派です。
周辺には約4000本の桜が、3000個以上のぼんぼりとライトによって照らされる景色は非常に見どころがあります。

武蔵野酒造とスキー正宗の歴史

レルヒさんは地元のゆるキャラとして定着

1916年にそれまであった武蔵野酒造を、現在の小林家が引き受け、これが創業の年となっています。
大正時代までは「越山正宗」として酒の製造を行っていました。
しかし江戸時代にその起源があったとされているようですが、それまでの歴史はさらに古く、詳しい創業は不明です。
武蔵野という名前から、江戸の武蔵野周辺の酒蔵から始まったのではないかと考えれています。

1911年にオーストリアからスキーという文化が、日本に初めて伝えられました。
当時のオーストリアは強大な軍事国家で、スキーは雪の中でも輸送や戦闘ができる技術だったのでしょう。
日本では大日本帝国憲法があり、日清戦争と日露戦争に勝利し、後に韓国を併合するまでの軍事力を持っていました。
そのような世界情勢でレルヒ少佐が高田の師団に配属され、スキーを日本の師団将校に教えたことから、これが日本のスキー発祥となりました。
1912年から始まる大正時代には高田は日本のスキー産業が定着し、スキー板やその用具などの周辺産業が盛んとなりました。
スキーで町おこしをしようとスキー音頭やスキー踊りまでも誕生したそうです。
郷土料理としてスキー飯やスキー汁。
民謡のスキー唄やスキー踊り。
スキー飴、スキー煎餅、スキー羊羹となんでもかんでもスキーと名付けました。
そこで武蔵野酒造では1927年に主要銘柄を「スキー正宗」にしたということのです。

1939年ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告したことをきっかけに第二次世界大戦が起こります。
1940年日独伊三国同盟が締結。
しかし1943年にドイツが負け続け、イタリアが連合国に降伏し、日本も厳しい状況に追い込まれていきます。
戦火が厳しくなるにつれカタカナ名は敵性語として使えなくなりました。
そこで「スキー」を「寿亀」と書いてスキー正宗と読ませ、1945年終戦を迎えました。

坂口謹一郎博士

坂口謹一郎は上越市出身で、発酵・醸造学の世界的な研究科です。
彼の功績により日本のバイオテクノロジーの基礎を築き上げ、世界的な応用微生物学の権威となりました。
例えば、その開発技術はお酒から航空燃料、薬まで幅広く応用され、特に麹菌の研究、ワイン酵母の発見は、日本の酒づくりの革命となりました。
東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授を務め、「酒の博士」としても知られています。
著書『世界の酒』『日本の酒』『古酒新酒』など。

そのような偉大な研究者から、武蔵野酒造は直接酒づくりの指導を受けるなど、公私ともに縁が深かったと言います。
先進的で科学的な酒造りにより、武蔵野酒造の酒は益々磨きがかかっていきました。
その結果、新潟県内でも早い時期から大吟醸を造り始めることができました。

武蔵野酒造に隣接して「楽酔亭」という名の多目的レンタルスペースがあります。
創業家の住居として使われていた建物をリフォームしました。
まら楽酔亭の名は坂口謹一郎の著書から由来しているとのこと。
この建物は多目的に使用することができるため、過去には能楽器の演奏会、個展、陶器や着物の販売会など行われたようです。

酒造りへのこだわり

水源を守るブナ林

武蔵野酒造は原料をこの上越地域にこだわって調達しています。
米は契約農家を始めこの地域で造られる米を主に使用しています。
この蔵では上越産以外の米を使っていないほど地元愛を強く持っています。

例えば上越市牧区の4名の農家と、棚田による契約米を作るプロジェクトが挙げられます。
牧区は長野県から続く山脈で、ブナ林が続いています。
ブナ林は自然のろ過装置ともいわれており、名水が生まれるといわれています。
そのブナ林が続く急な斜面を開墾して棚田が作られてきました。
曲線的な美しさがある棚田は、見る人にぬくもりと懐かしさを与えてくれます。
上越市がおすすめする観光ポイントでもあります。

現在、日本で多くの耕作放棄地の問題が起きています。
耕作放棄地は、病害虫の発生、自然災害の危険性の増加、不法投棄の温床、野生動物の下山などの問題を引き起こしています。
武蔵野酒造は美しい景色と自然環境を守るためにも、農家とともに棚田を守り、こだわりの五百万石を栽培しているのです。
「ぶなの露」という酒名で醸される特別な酒は、そのような思いから造られている酒なのです。

武蔵野酒造が使う水は、妙高山から流れ出る伏流水を手間を掛けて取水しています。
妙高山は、上越市の南部妙高市にある標高2,454mの成層火山です。
新潟県を代表する山であり、越後富士の異名を持つ全国的に知名度がある山です。
多くの雪が降り、スキーの名所としても有名です。
その雪解け水が、山に染み入り水脈となります。
仕込み水はその妙高山麓から流れる天然水を使用します。
不純物を除去するためフィルターを通したあとは、加熱処理せずに使えるほど清らかな水でであり、これがこの蔵の味の特徴となります。

味への追及

冬場はとても寒いため、体を温めるために上越の食文化は醤油系が強くしょっぱい食べ物が多くあります。
ですので、お酒は甘口を求める方が多いのだとか。
そこで武蔵野酒造は「甘すぎず辛すぎず喉越しのいい酒」、「飲み飽きしない、次が飲みたくる酒」を目指しています。
それは芳醇にして軽めの甘口な味です。
代表的には、スキー正宗シリーズが日本酒度の目標を+2と定められ、数値上はやや辛口となるものの味わいはやや甘くと感じられるお酒となっていることです。

現在では、寿亀(すき)正宗を復活させ大吟醸、純米大吟醸、純米吟醸の高級酒ラインを展開しています。
よりふくよかで豊潤な味わいが楽しめることでしょう。

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