新潟のお酒が美味しい理由

  • 日本屈指の美味しい米/全国屈指のコメどころ新潟では、酒造と農家が一体となり、酒造りに合うお米を特別に栽培しています。雪深い冬と夏の暑さ、河川が運ぶ豊かな土壌がおいしいお米を育てます。
  • 雪解けのきれいな水/おいしいお酒作りに欠かすことのできいない大事な「水」。多くの新潟県の酒造では高い山々から流れ出た雪解けの湧き水が使用されています。この水がお酒をやわらかく、まろやかにしています。
  • 全国最多の酒技術者/新潟県は、お酒の技術集団が日本で最も多い杜氏のふるさとです。ここで日々、伝統と新しい技術を磨き続けています。その他、醸造試験場など酒造りの技術を支えてくれ機関がたくさんあり日々レベルアップをしています。

日本酒は新潟で始まり、新潟で終わる

新潟のお酒は、「淡麗辛口」と言われます。
きれいで、すっきりして、あとに残らない、飲み飽きしない、という特徴です。
それゆえ、初心者の方でも飲みやすく、幅広い年代の方からお喜びいただいております。
しかし、決して淡麗辛口なお酒だけでありません。
新潟の酒蔵の数は全国で最も多いためさまざまなお酒が造られています。
最近では、コクを強調した骨太な味なお酒や、あまさを強調したお酒、鮮度感のあるパンチの
きいたお酒など、各蔵元がその技を生かした様々なお酒が発売しております。
いろんな味を見つけて頂き、新潟のお酒を堪能してください。

新潟の酒の特徴

新潟県は全国でもトップの日本酒生産地と言われています。
ここでは「なぜ新潟の酒は美味しいのか?」に対する解説をしていきます。
様々な理由や説はありますが、私たちは下記の3つの条件があるからと考えています。
1、地理的条件
2、歴史的条件
3、人的条件

それらについて詳しく述べていきます。
なお、本文には当社独自の調査による仮説を含んでいます。

1、地理的条件

まずフォッサマグナの説明をします。
日本が弧状に曲がっているように見えるのはフォッサマグナが原因とされています。
新潟県の大部分はそのフォッサマグナの上に位置します。
県西部には糸魚川―静岡構造線という重要なフォッサマグナがあります。
また東側には新発田―小出構造線が柏崎より県北へと走っており、新潟県域の多くがフォッサマグナに積層した比較的新しい年代の地層上にあります。

次に新潟県の地域別特徴を説明します。
新潟県の面積は47都道府県で第5位という広さがあります。
県内は上越地方、中越地方、下越地方、佐渡地方の4地域に大きく分けられています。
それぞれに山地、丘陵地、低地と分けて解説をします。

山地は、山形・福島・群馬・長野・富山各県にまたがる朝日山地、飯豊山地、越後山脈などの山々により形成されています。
特に越後山脈はフォッサマグナ形成の隆起地形として険しい山脈であり、文化的にも他地域との境目となっています。

丘陵地は、信濃川を流域とした魚沼丘陵・東頸城丘陵などが分布しています。
新潟県は地すべり多発地帯と言われるほど軟弱な地盤が分布します。
そのため山地や丘陵地では河川や降雨によって浸食され、数多くの谷が分布しています。
これは主に山地や丘陵地が、泥岩質の上に風化した土などが積もった構造が要因していると考えられています。

低地には、信濃川・阿賀野川・関川・姫川等の河川流域および河口部に発達しており、中でも信濃川・阿賀野川流域に広がる越後平野は日本海側で最大の面積を有する平野です。
信濃川は日本で最長の川であるため、軟弱な地盤が崩れ、川に沿って平野が広がっていたのでしょう。

越後平野の沿岸部には砂が堆積し、新潟砂丘は約70kmあり全国一の長さを誇ります。
砂が山からの水流を堰き止めたため、水はけが悪く「潟」と呼ばれる大きな沼地が出現していました。
新潟という名前は、この潟が由来になっています。

ちなみに県内全域が日本海側気候で豪雪地帯であり、山間部は世界有数の豪雪地帯となっています。
特に津南町や十日町市、妙高市周辺は積雪が多い地区です。
一方、新潟市や柏崎市などの沿岸部はそれほど積雪が無い地区もあります。
また海洋性気候である佐渡島は、冬は比較的暖かく、雪よりも雨の日が多いほどです。
日本海の暖流である対馬海流の影響で緯度の割には冬の気温が高く、降る雪は水分が多く、重いという性質を持ちます。

つまり、広い面積の新潟県は山間部が多く、多くの雪が降り積もります。
ミネラル分を含んだ雪解け水は、河川や水脈となり、越後平野を形作りました。
それらは田を潤す水として、また生活水として利用されています。
一部の山や谷などで湧いた水は森林や地層によって、自然ろ過され、美味しい水となっています。

新潟県では上記のような地理的要因があり、大きな平野と河川があります。
これらが米を造るのに適した環境となりました。
また雪山から生み出される水は軟水となり、新潟県らしさの酒造りに適していきました。

2、歴史的条件

神話の時代、現在の福井県から新潟県は、高志国(こしのくに)と呼ばれていました。
歴史を経て、「高志」が「越」となり、越前、越中、越後と分離したと言われています。
大きな高志国を治めていた奴奈川(ぬながわ)姫がいたと言われ、「古事記(こじき)」や「出雲風土記(いずもふどき)」などの文献に記されています。

高志国がかなり広い地域であることから、奴奈川姫はかなりの政治力のあった人物だっとされ、その理由としてヒスイを支配していたことが挙げられています。
ヒスイは当時国内、国外に大きな影響力を持っていました。
それらは祭祀になどに使われていたことから、早い時代からこの地に農業が存在していたことが分かりました。

律令時代になると、蝦夷平定の拠点として国府が置かれました。
南の地域の人民を移動させ、郡を設置し村を開発したようです。
頸城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡の四郡が越後国の基礎となりました。
また佐渡国などがあり、広い地域に人々の暮らしがあったことが分かります。

平安時代以降は流刑地となったこともあり、順徳上皇や日蓮、親鸞、世阿弥などを通じて都から文化が伝承されることもありました。現在でもその時代から根付いた文化が受け継がれています。

鎌倉時代になるとこの地域には上杉家が台頭します。
公家の一族が京都から鎌倉に下り、武家化して上杉姓を名乗ったことが上杉家の始まりとされています。
室町時代には現在の東京都、埼玉、神奈川、群馬、新潟県にあたる広い地域を治める有力守護大名として栄えました。

後に長尾家出身の長尾景虎は上杉家の家督を譲り受け、上杉謙信となりました。
謙信は、戦国時代の大名で屈指の戦上手とされ、その神がかった戦績から後世、「軍神」や「越後の龍」などと称されました。
特に武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆らとの合戦は有名です。

当時の謙信を支えたのが、通貨と同じ程重要であった、越後の米でした。
春日山城の周囲である頚城平野や越後平野では、稲作が盛んで30万石~40万石の石高があったと言われています。
また謙信は産業を振興して越後国を繁栄させました。
当時は一度にたくさんのものを運ぶ手段として、船による海上輸送が重要視していました。
そこで謙信は直江津港と柏崎港を出入りする船に関税を徴収し、国の財政としました。
越後の米を使って、大坂などと貿易を行いました。

江戸時代になると、高田藩が置かれ徳川家康の六男である松平忠輝を筆頭に統治されます。
特に佐渡金山が開発され、金を運ぶための街道整備のために、多くの人口が流入しました。
このような理由で、越後にはいくつもの街道があり、関東や関西方面に比較的容易に移動ができました。

江戸時代から1800年頃までは、新潟は全国で一番人口が多かったと言われています。
経済の中心は農業であり、米は貨幣と同等の価値を持っていました。
日本海側は米作に適した環境であり、また「北前船」という運送手段が活躍しました。
特に新潟は北前船の拠点だったことから、多くの人手が必要とされたからです。

つまり、新潟県では昔から稲作がなされており、米作りが盛んな地域でした。
上記のような歴史的な要因によって、酒造りに適した米や人手の確保、酒造りの文化を確保することができたのです。

3、人的条件

農業が確立していた新潟県でも、酒造りとしては後進国でした。
江戸時代までは伊丹・灘・伏見がある兵庫や京都が酒造りの中心でした。

そもそも江戸時代以前は、各家庭で酒が造れたので、酒屋という業種が存在しなかったのかもしれません。
酒の免許とともに、酒屋という概念が生まれたのではないでしょうか。
免許は江戸時代にその由来があるとされています。

1657年に江戸幕府は、酒株という株式を発行し、酒造りを統制しました。
酒株を持つものに酒造りの権利を与え、持っていない者に酒造りを禁じたのです。
またそれぞれの酒蔵が造れる量を決めたり、細かい制約を作り、現在までの酒造免許へと繋がりました。
江戸時代に端を発する酒蔵が多いのはそれが理由です。

新潟県は全国一神社が多い県です。
その理由として、江戸時代に様々な地域から人口が流入し、各地の文化が入ってきたからです。
その結果、各地の宗教や神様を祀る神社が増えていったと言われています。
神社にお供えをするために酒造りには欠かせません。
そのような理由で、新潟では酒蔵が増えていったのかもしれません。

明治以降、酒造りの近代化が起こります。
醸造学という学問が作られ、科学的な側面からの酒造りが行われます。
中でも酒の品質の安定を測るために、大蔵省の傘下に醸造試験場が造られ、酒の品評を行う機関となりました。
技術の高度化により京都に次いで、広島、熊本、山形、秋田という銘醸地が生まれました。

その時代の中、新潟の酒を発展させたと一人として田中哲郎が挙げられます。
田中は、木桶から琺瑯タンクによる酒造りを進めるなどし、新潟県の酒造技術を向上させました。
後に幻の酒と言われる越乃寒梅の酒造元、石本酒造を始め、多くの新潟県の酒蔵を指導しました。
かなり厳しい指導だったようで、杜氏たちは大変でした。
その功績から、新潟銘酒の父と呼ばれています。

また「酒の博士」と言われる坂口謹一郎も、その一人です。
坂口は新潟県上越市の出身で、東京大学の応用微生物研究所で所長を努めた農学者です。
醗酵や醸造学を確立し、酒造りの向上を図りました。
田中、坂口共に戦中、戦後での新潟の酒造りを支える大きな存在でした。

酒造りには、それを主導する杜氏の存在も大きく関与しました。
冬は積雪が深く、海も荒れて漁ができない越後の村から、関西や尾張へ出稼ぎに行ったのが越後杜氏の発祥とされています。
杜氏は杜氏組合という集団を作り、その技術や知識を伝搬しました。
頚城杜氏、刈羽杜氏、三島杜氏の三大杜氏。
または三島杜氏を、野積杜氏、越路杜氏として越後の四大杜氏と呼ばれています。
南部杜氏に次ぎ、二番目に大きな杜氏の組織となりました。

これらの理由にて、醸造所の数や、それを流通させる会社が多く必要とされました。
酒蔵会社間の競争や、流通業者の競争が活発になり、それぞれの個性となりました。
また新潟の地元民も、日本酒を飲む傾向が高く、そのため1人当たりの日本酒消費量は1位となっています。
その際には、大メーカーの酒ではなく、地元や近隣の酒蔵の酒が飲まれてきました。
新潟の日本酒は、新潟県民にとっても文化のひとつとなっています。

上記のような人的理由により、新潟には酒造所が多かったり、酒造りの技術の向上に繋がっていったのです。

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