市島酒造(株)

地域 下越
代表銘柄 王紋
住所
新潟県新発田市諏訪町3-1-17  Gooleマップを見る
URL
http://www.ichishima.jp

観光名所としても名高い市島酒造

「米と水と気候と技術を生かした、品質の高い清酒を造り続ける」を理念に、創業より200有余年。
銘家である豪農、市島家創業の由緒正しき酒蔵で、今もなお観光施設として人気を博しています。
伝統を守りながら、全国初の女性杜氏を生み出した革新的な取り組みを続ける新発田の銘醸。

歴史

文禄・慶長の役といえば、秀吉が明や李氏朝鮮と戦った歴史的な事変です。
小西行長や加藤清正らの武将が名を上げましたが、秀吉の死によって終結をしました。
そのような時代背景の中、越後では秀吉が溝口家を配置し、新発田藩が築かれました。
1598年、溝口家に随伴していた市島家も加賀より移住してきました。
やがて市島家は薬問屋の他、酒造、金融、回船業などで財を成していきます。

一方、当時の新発田領は蒲原平野と言い、その名の通り蒲と呼ばれる沼地が多く、耕作に向いていませんでした。
そこで市島家は、灌漑などを通じて開拓をし、蒲原平野を一大穀倉地帯へと変化をさせました。
これにより、最盛時には多くの山林や田畑を所有する全国屈指の大地主となりました。
市島家が豪農と呼ばれる所以であり、現在でもその屋敷である市島邸は、新発田市の観光名所となっています。

その市島本家から1790年代に市島秀松が分家します。
寛政と呼ばれるその時代は、松平定信による寛政の改革で有名です。
飢饉や一揆などが頻発した田沼意次の政策を大きく変え、緊縮財政と農村の復興を謳い社会変化を起こしました。

そんな時代背景の中、市島秀松は「諏訪盛」の名で酒造りを開始しました。
その後、歴代の蔵元は学問を好み、江戸文人との交流を通して新発田の文化に貢献をしながら、営々と酒造りを続け、現在に至ります。

新発田の自然環境

県内で人気の藤塚浜海岸

新発田市は越後平野の北部に位置する、新潟県北部の中核都市です。
北西部には日本海に面した白砂の海岸である藤塚浜海岸が広がり、海岸前にオートキャンプ場があり、夏には多くの観光客で賑わいます。
その砂丘地帯には石油資源開発のガス田があり、近年まで石油の採掘が行われていました。
東部にもかつて赤谷鉱山があり、銅や鉄などの資源が産出されていました。
このように、新発田は重要な資源確保の土地でもありました。

山間部には飯豊山、二王子岳などの山々がそびえており、新発田の水源となっています。
その飯豊山系を水源とした加治川が流れており、この川に沿って水田が広がっています。
飯豊山は花崗岩で形成されており、この地帯を流れてきた水は浄化作用され、清らかさが保たれていると言います。

そのため昔からこの土地の水はとても美味しいと言われてきました。
市島酒造ではこの加治川を水源にとり、新潟特有の素晴らしい軟水を使用しています。
この水を使い醸造することにより、ゆっくりと醸された良質の清酒ができあがります。

平地ではあまり雪が積もらない地区ですが、海からの風が強く極寒となります。
この条件が、適度な降雪地帯として綺麗な空気や醸造に適した温度をもたらします。
低温長期発酵の酒造りに最適な環境と言えるでしょう。

月岡温泉

月岡温泉は新発田市にある新潟県を代表する温泉地の一つです。
1915年に開湯され、100年を超える伝統があります。
にっぽんの温泉100選では例年上位にランクインする旅館やホテル、温泉街があります。
中でも「泉慶」「華鳳」と言えば新潟県でも人気トップ2を誇る人気旅館ではないでしょうか。

温泉街には、カフェや駄菓子屋、足湯、昔ながらの饅頭屋や酒屋のほか、寿司屋、居酒屋など様々な店舗が軒を連ねます。
このようなまちづくりの取り組みは全旅連や国土交通省より称えられ、幾多の賞を受賞しています。
市島酒造の酒もこの月岡温泉で多く使用され、人気の銘柄となっています。

近代化

モダンなデザインの王紋ラベル

昭和初期になると四代目当主 市島長松は「王紋」を名に冠したブランドを立ち上げます。
欧州の王家やワイン蔵の紋章に感銘を受けた長松が、日本酒に洋風なデザインを取り入れたのです。
ラベルにはまるで中世ヨーロッパで使われた盾の紋様が採用されました。
現在でもスペルは「AU MONT」とフランス語を感じさせ、長松の欧州へのこだわりが感じられます。
このように市島酒造は、学問に優れ、先進的な取り組みを伝統的に行っていました。

ちなみに当時の酒蔵りと言えば、女人禁制が当時の常識でした。
男尊女卑が広く浸透したとされるのは江戸時代~明治時代初期と言われています。
老舗と言われる酒蔵は、この時期に創業を行っており、その時代背景より女人禁制となった、あるいはその重労働から、けがをさせないないためにも女人禁制としたなど様々な理由が挙げられます。
しかし明治政府は、女性蔑視をしないことや、過剰な女人禁制を禁止することで、次第に酒造りの場に女性が参加していきました。
後に市島家では、このような時代でも先鋭的な取り組みを行い、酒造りに女性を活用していきました。

日本初の女性一級醸造技能士の誕生

市島酒造では、1975年に全国で女性杜氏第1号となる技能士が誕生しました。
その技能士である椎名氏は、当初は市島酒造の炊事当番として、雇われていたそうです。
しかし蔵人たちの仕事を見るうちに、黙々と働く姿に惹かれます。
次の年の秋、彼女自身が、酒造りに入らせてもらいたいと申し出たそうです。
既に、瓶詰め、造りの手伝いとして女性が5、6人いました。
市島酒造は早くから女性を活用していたのですね。

昭和49年から始まった酒造技能士の検定試験が彼女の転機となりました。
蔵の中では、試験に向け勉強している杜氏がおり、彼女はその姿に憧れていきました。
その試験勉強が面白そうに映り、彼女も働きながら、帰って家で勉強しました。
睡眠時間は3時間程度という日も多く続いた激務だったようです。
結果的に女性でその試験に受かったのは、全国で椎名氏だけだったと言います。

その後彼女は、全国で初となる女性一級醸造技能士として、酒の分析や、酒母造り、麹作りなど、男性以上の活躍をしていきました。

この実話を通して、市島酒造は作家宮尾登美子さんの小説「蔵」のモデルとなり、また漫画「夏子の酒」でも取り上げられるなど、女性が活躍する酒蔵の先駆けとなりました。
小説「蔵」は、越後の酒蔵を舞台に、跡取り娘の盲目の美少女 烈を主役に苛酷な運命を生きる家族の愛憎と絆を描かれています。
連載中から大きな反響を呼び、映画・テレビドラマ・舞台作品化もされ、リメークも続く名作です。
同様に夏子の酒も、尾瀬あきら氏による人気漫画で、ドラマ化されました。
造り酒屋を舞台として酒米を題材に日本の米作り・農業問題を取り上げた社会派の漫画です。

そこで市島酒造では「夢」や「杜氏の華」と言った、女性の活躍や夢を応援するブランドを立ち上げ、ヒットしました。
いずれも女性杜氏をイメージした、やわらかな飲み口が特徴的な酒です。

市島酒造のこだわり

現在の杜氏である田中氏は、早くから市島酒造に入社し、今では県内でも屈指のベテラン杜氏となりました。
田中杜氏は、1986年に高校卒業後すぐに入社し、同年の7月からは新潟清酒学校へ入学して造りの基本を学んできました。
ずっと酒造り一本で育ち、2003年から杜氏を任されており、市島酒造の看板とも言える存在です。

田中杜氏を中心とした酒造り

かねてより「甘み」「やわらかさ」を大事にした酒であったことから、そのイメージを大切に守ってきました。
観光バスが立ち寄る観光蔵でもあることから、幅広い層のお客さんが立ち寄ります。
そこで蔵としては、多くの年代に受け入れられる、飲みやすさが重要視されてきました。

しかし、歴史が長いゆえに、ブランドや商品の多品種化も広がりました。
王紋、市島、夢、年輪、かれんなどに分かれ、それぞれに吟醸系、純米系、本醸系と広がりこの蔵は多くの商品を抱えました。
その分、管理が分散しラベルなどの資材の必要性も問われます。
そこで2000年過ぎに、分散していた資産やブランドを集約し、必要なものだけを残す方針にしました。
ブランドの集約や、遊休不動産の売却や経営の見直しを図っていったのです。

その結果、杜氏や蔵人たちも、酒を管理しやすくなり、酒の品質があがりました。
田中氏が杜氏になってから3年目に全国新酒鑑評会で入賞します。
その後、4年目からは金賞を5年連続で受賞しました。
この経験が糧となり、田中杜氏を中心とした酒造りが成功をするようになっていきました。

地域との取り組み

早くから市島酒造は海外への輸出に力をいれていました。
ヨーロッパ、アジアを中心に海外に売り込んでおり、日本食の注目と共に輸出量を年々伸ばしておりました。
現在はホテル日航や、月岡温泉などと連携し、地元を盛り上げる活動に取り組んでおります。

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