金鵄盃酒造(株)

地域 下越
代表銘柄 越後杜氏
住所
新潟県五泉市村松甲1836-1
URL
http://www.kinshihai.com/

地域の歴史と環境

金鵄盃酒造は、新潟県五泉市村松に位置する酒蔵です。
創業は1842年、縁起物とされる「金鵄」を所以としてこの銘柄となりました。
すっきり飲みやすい辛口の酒を醸す伝統の酒蔵です。

蔵からは日本三百名山である標高1200メートルの粟ケ岳(あわがたけ)を眺望することができます。
登山道、ハイキングコース、キャンプ場などの施設が整備され、非常に展望が良い山です。
かつて阿波(あわ)の国から移住した源氏の子孫が、故郷をしのんで命名したと伝承されています。
山の中腹には仏像が祀られており、古くから信仰の対象となっていました。
またその奥には霊峰と呼ばれる白山がそびえます。

本来の白山は、石川県と岐阜県にまたがる2700メートルの大きな山で、富士山、立山と並び日本三霊山と呼ばれています。
越後の白山は、加賀の白山から分祀され名付けられたと言います。
加賀、越後の白山とも頂上に祀られている女神は菊理媛(くくりひめ)であり、農業の神、海上の神、国家、 郷土の守り神として広く人々より崇拝されていました。

自然が厳しく荘厳なこの白山には、かつて大蛇伝説がありました。
大蛇は寺の和尚により退治され、逃げた道が川となったのだそうです。
蛇は70km川下の新潟市内の白山神社まで逃げ、絶命したとか綺麗な女に変わったとか、松になって蛇松として呼ばれるようになったなど、様々な伝説になっています。

いずれの山も金鵄盃酒造の村松がある蒲原平野からは、常に眺めることができなじみ深い山となっています。
ここを起源とし、早出川、滝谷川、五郎一川など大小さまざまの川が蔵の周りに流れています。
水に恵まれた平野は、古くから住みやすい街とされ、江戸時代には村松城が築城されました。
城下町も整備され、三万石の村松藩となり、多くの住民が住んでいたとのこと。
整備された細い道は、その当時の面影を残しています。

またこの一帯には神社や仏閣が多く存在します。
そもそも新潟県は全国でも一番神社が多い県とされ、二位以下を大きく離すほどの社の数があります。
新潟県では古くから農耕人口が多く、田んぼの面積も広いです。
このことから、多くの神社ができた背景には、作物に対する豊作祈願が関係していたと考えられます。
また近代にはいくつもの街道が通り、河川と日本海を通る海運も発達していました。
その関係で、全国各地の様々な文化が入ってきやすかったと考えられます。
結果的に、様々な地域から集まった神様がその都度祀られるようになり、神社も増えていったのではないでしょうか。

京都を総本山とする愛宕神社、松尾神社、江戸から伝わった日枝神社、信州からの諏訪神社、滋賀県から伝わる日吉神社などがこの辺りに存在することがそれを物語ります。
明治時代になると、神社を統廃合する神社合祀が政府から発令され、全国的に神社が統廃合され減ったそうです。
しかし新潟県では農民が多く、地域文化を守りたいという強い気持ちにより、神社合祀が進まなかったため、今でも多くの神社が残されていると言われています。

城下町であり、蒲原地方における政治・物流の中心地として繁栄した村松町は1897年には大日本帝国陸軍の歩兵第30連隊の駐屯地となりました。
この連隊は、日露戦争や満州事変、ノモンハン事件など歴史的な事変に関わる重要部隊でありました。
それらの重要拠点となる村松では1923年に、蒲原鉄道が敷かれ1999年迄営業を行いました。
現在でも金鵄盃酒造の近くには駅の名残があり、現在はバス停として利用されています。

金鵄盃酒造のはじまり

霊峰と呼ばれる白山をはじめとする山々や川に囲まれた村松にて、1824年に茂野静六が茂野酒造場として酒蔵を創業しました。
この蔵では白山が生み出す水脈の井戸水を使用していますが、この周辺には数多く天狗の伝説が残っていることから、この蔵が使う水は天狗が引いて来た「天狗の清水」と呼ばれています。
本家である加賀の白山水系にも、天狗舞酒造があり、白山の神聖さと天狗の関係性が垣間見えます。
白山は修験者の山だったことから、むやみに人間が立ち入れられない厳しい自然でした。
そのため人の手が入らず、豊かな自然と水源が守られているのだそうです。
地中深く浸透し150年もの時間をかけて生み出された水は、酒造りに適した弱酸性の軟水となります。
かつては村松藩の殿様が飲んでいたという由緒ある水。
この柔らかで甘みのある水を、仕込みのほかに米洗いや道具の洗浄に広くまで活用しています。

1942年には、この蔵は村松に配置されていた陸軍歩兵第三十連隊から金鵄勲章という褒章を受けました。
この時に授かった勲章を銘柄として「金鵄盃」としました。

金鵄勲章は日本建国の説話に関係する、誉れ高き褒章だったようです。
現在は金色の鵄(とび)と言ってもあまりピンときませんが、八咫烏(ヤタガラス)と言えばご存知の人も多いはず。
昔は、金鵄と八咫烏は同様に日本建国に関わった霊鳥として、吉事や勝利の代名詞として使われていました。
金色の鵄が神武天皇の弓に止まり光を発して、戦争を勝利に導いたとされたと言われています。
それだけ、金鵄勲章の受賞は名誉なことであったようです。

 

ケンカ酒と言われる所以

新潟の酒造りの歴史には欠かせない偉人である田中哲郎がこの蔵にも関わっています。
彼はもともと勘と習慣に頼っている時代から、成分値を数字化、データ化しようとしました。
まだ大吟醸というものが世に認知される前から、田中は大吟醸造りを基本とした酒造りを各酒蔵に指導しました。
その歴史の中で毎年挑戦をして、酒造りのデータを蓄積したのです。

ケンカ酒とは、このような大吟醸造りの中から、さらに選び抜かれた品評会に出品するような酒を新潟の一部地域でこう呼ばれています。
それは蔵人が持つ技術を出しつくし、悩みぬいた末に完成する”戦う日本酒”と言われます。
良い酒を造ろうと喧々諤々の中から生み出される姿から名付けられたのでしょう。
田中哲郎は非常に厳しい人だったそうで、まさにケンカ腰になり酒造りに携わったと言われています。

このように吟醸造りに尽力をした結果、高い技術力が培われ、全国新酒鑑評会での金賞受賞歴は、過去10年で7回と新潟県内ではトップクラスとなりました。

地元で支持される酒造りと首都圏の進出

この村はは水がきれいで水量も豊富で、稲作が盛んです。
三方を1,000m級の山々に囲まれて山の気候を受けやすく、昼夜の寒暖差が大きいことも稲作には好条件となっています。
ゆえに歴史的に農業に関わっている住民が多く、故に米作りに精通した蔵人が多いことがこの蔵の強みとなっています。
ですので酒米にはこの地域で育てた地元村松の「五百万石」や、蔵人自身が育てた「越淡麗」などをこだわって使用しています。
地元の米と水で、地元に愛される蔵を目指しています。

吟醸造りには定評があった蔵ですが、地元で支持されているのはリーズナブルな本醸造です。
吟醸造りで得たノウハウを生かし、酵母開発にも共に取り組んできました。
酒造りに必須な酵母は、外部の企業から購入する酒蔵が多いのが現状です。
しかしここでは長年の研究により、自社で酵母を培養し、それを使用しています。
自社で使う酒米や水、製造量に合わせて使い分けることが利点なようです。

金鵄盃酒造では、まだ新潟でも甘口の酒が多い時代に、早くから淡麗辛口の味に踏み切りました。
そして、これもいち早く東京での販路を開拓し、升喜という大手の酒問屋と組み「越後杜氏」という銘柄が首都圏の市場に出回りました。
味のきれいなさっぱりとした飲み口、キレの中に旨みが膨らむ味わいは東京市場を風靡したと言われています。

今後も首都圏と地元を中心に、伝統の淡麗辛口酒を楽しめそうです。

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