田中酒造(株)

地域 上越
代表銘柄 能鷹
住所
新潟県上越市長浜129-1  Gooleマップを見る
URL
http://www.noutaka.jp/

田中酒造の位置する直江津は日本海に面した港町で、古くから栄えていました。
この地区は古くから甘口の酒が飲まれていましたが、その中で珍しく田中酒造は辛口を貫いている酒蔵です。
1643年創業の酒蔵で、その独特な環境と歴史の中で育まれた酒を醸しています。

直江津の自然と環境

直江津地区は新潟県西部に位置し、かつては直江津市が在りました。
現在では上越市に組み込まれています。
直江津は、海沿いの地域で、頸城平野を流れる関川の河口付近にあたります。

田中酒造の位置する場所には延長約20kmの潟町砂丘と呼ばれる砂丘が分布しています。
これは日本でも有数の長さの海岸砂丘と言われ、非常に特徴的なのだそうです。
というのは、乾いた砂が多くてさらに風が強く、しかも砂の移動を止めるような特殊な構造であったためと言われています。

数万年~十数万年をかけて、冬場には海岸線の砂が沖まで運ばれ、夏場にはその砂がまた海岸線に積もることを繰り返して造られてきました。
砂は風に吹き飛ばされて積もり、小高い丘となっていったのだそうです。

またこの砂丘は、古くにできた砂丘と、比較的新しくできた砂丘の二段構造となっています。
このため、地形によっては窪地になったり、潟と呼ばれる大きな沼が造られます。
それらの原因により、陸側から海に向かって、安定的な水量の地下水の水脈ができました。

田中酒造はまさにこの砂丘の上に位置しており、井戸として掘った場所が、この地下水の水脈であったようです。
砂によってろ過された綺麗な水を使って、古く江戸時代から酒造りをすることができたのです。

直江津の歴史

古えの奈良時代では、仏教を普及することで国を治めようとしていました。
741年に聖武天皇が「国分寺建立の詔」という命令を出しました。
これは各諸国の中心に寺を建立することで、国の安定をさせようとした当時の考えです。
この命令により直江津に国府という国の機関が置かれ、越後の政治の中心として栄えました。

直江津には五智国分寺という寺が建立されました。
五智とは、釈迦如来や大日如来などの5つの知恵を釈迦にあてはめた教えです。
自然の功徳や、健康への願い、五穀豊穣への願い、極楽往生の功徳などを願ったとされます。
寺ではこれらの信仰を、都から地方の農村へと広げていく役割があったようです。
この理由で、上越市には五智という地名が現在でも残されています。

またこの五智には、聖人と呼ばれた親鸞が流刑となり浜に上陸したとされています。
親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家で、浄土真宗の宗祖とされています。

時代は源平合戦から続く戦乱の世で、さらには自然災害や疫病がつぎつぎと起こりました。
人々は世の中が救いのない終末の世界が訪れたと混乱と荒廃の時代でした。
後世に森鷗外が、その代表作の一つで、直江津を舞台とした「山椒大夫」に描いた過酷な時代でした。
その小説では、人買いや奴隷、拷問といった平安末期の時代模様が伺えます。

当時の仏教は厳しい戒律の上で、修行を行った者しか救われないとされていました。
しかし親鸞は、阿弥陀仏によってすべての人間は往生できると説く優しい教えでした。
その考えが異端視され、ついには京都を追われ現在の直江津の地に流刑となってしまいました。
1207年から親鸞はこの地を中心として、民衆に浄土真宗を説きました。
それゆえ、この地には浄土真宗が根付いたとされています。

1562年には上杉謙信が、この五智国分寺を再興させました。
謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印には毘沙門天を意味する「毘」の文字を使っていました。
曹洞宗や禅、臨済宗、真言宗を学んだ謙信にとって、この地を信仰の場所として重要視していたことがわかります。

また謙信にとっては重要な戦略の土地だったとも言えます。
周囲は山に囲まれており、なだらかな海岸線を擁する直江津は、地の利があったでしょう。
この港や河川を拠点に、都との港湾貿易に力を入れた謙信は、莫大な財産を築くことができました。

時代は1643年、江戸幕府の将軍は徳川家光の時代です。
農民が勝手に田畑を移動させないように、田畑永代売買禁止令が出されます。
これは農民の間に経済格差を阻止するための法律と考えられています。

またこの時代に直江津港は佐渡島で産出される金の航路として繁栄しました。
北国街道と呼ばれる道が整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たしていました。
そのような時代に、北国街道沿いにて田中酒造は、能登屋の屋号で創業しました。

田中酒造の特徴と発展

田中酒造は、300年以上の歴史を重ねた酒蔵です。
現在のえちごトキめき鉄道の谷浜駅前で、海に面した砂丘の上に位置しています。
全国でも珍しいその地形的な特徴で、きれいな井戸水が湧き出ていました。
当初は「公乃松」という銘柄で酒を醸していたそうです。

1943年にその田中酒造は大きな転換点を迎えます。
時代は第二次世界大戦の真中。
日独伊三国同盟が結ばれていましたが、イタリアが降伏しムッソリーニが逮捕されます。
ドイツ軍はソ連軍に大敗し、日本軍もガダルカナル島から撤退します。
山本五十六が戦死し、学徒出陣が発令されました。
量子力学を研究していたロバート・オッペンハイマーが、原爆の研究に駆り出されました。

そのような混乱した時代になると、酒米の配給は滞り、田中酒造でも酒造りが行えなくなりました。
全国的にも酒蔵の廃業が増え、この蔵も廃業を迫られました。
しかし当主の妻がなんとか長男を代表にして、廃業を思いとどまらせました。
実際のやりくりは妻のキミさんが行っていたようです。

商売の才能があった妻は前面に出ず、この酒蔵を廃業の危機から救ったのです。
「能ある鷹は爪を隠す」とは、まさにこの様子です。
その格言から「能鷹」という酒名を生み出し、今日に至ります。

田中酒造のこだわり

田中酒造のある上越地区では甘口の酒が多いが、「能鷹」は辛口ひとすじです。
ただ辛口なだけでなく、旨みもある味わいが特徴となっています。
地元への出荷率が75%と、地元の圧倒的な支持を得ています。

米については、麹はすべて「五百万石」、吟醸酒は全量に契約栽培の「越淡麗」を使っています。
越淡麗は誕生からまだ日が浅いため、山田錦より扱いが難しいと言われています。
しかし田中酒造では早くもこの越淡麗を使った酒を多く製造しています。
新潟らしい辛口を残しながら、ふくよかな味わいを追い求めています。

仕込み水については300年以上の実績があり、他の蔵以上の自信を持っています。
裏山の横井戸から取水する天然水は、江戸時代から続く柔らかい水質です。
毎年、酒造りの前には蔵人全員で横井戸を清掃、点検します。
ロウソクを灯して、這いつくばって狭い暗い洞窟をきれいにするのだそうで、閉所恐怖症だと耐えられないとか。

早くからの設備投資も行いました。
1955年に建屋のコンクリート化を実現し、室内の温度の一定化を図りました。
その3年後には酒蔵の心臓部と呼ばれる麹室の大改装を行い、より一層高度な製造技術を取り入れることができました。
1966年に瓶詰ラインを整備し、大量の酒を一気に製造することができました。
時代の成長とともに、田中酒造は技術の発展を続けていきました。

しかし1990年代初頭をピークに、日本のアルコール消費は右肩下がりに転じます。
それに伴い田中酒造の製造量も、最大時期より減少していきました。

とはいえ、この酒蔵の技術は決して落ちませんでした。
それは設備投資の際には、過大な投資をせず資金や能力を集中させたことです。
例えば、大人数の社員を雇用することはありませんでした。
現在でも社員は少人数にしぼり、季節労働者とともにやりくりをしています。
戦争時代の苦い時代や、長年の歴史からこの酒蔵は、酒商売のやり方を熟知しているのです。
しかしそれを大体的にアピールすることはありません。
なぜならこの蔵は「能ある鷹」だから爪を見せることは無いからです。

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